京西清談は、私が東京の世田谷に住んでいるからと、気持ちが癒される、あるいは、”ほっ”とする話題を提供したいからです。
 
君主論(2)チェーザレ・ボルジアについて

君主論(2)チェーザレ・ボルジアについて

1502年にニッコロ・マキャヴェッリはフィレンツェ共和国から派遣され、チェーザレ・ボルジアとの交渉の最前線に立ち、チェーザレの行動をつぶさに観察することが出来ました。マキャヴェッリは、チェーザレの死後、外国に蹂躙されるイタリアの回復を願い、統治者の理想像をフィレンツェのメディチ家に献言するため『君主論』を執筆しました。マキャヴェッリは『君主論』の中で、「チェーザレは高邁な精神と広大な目的を抱いて達成するために自らの行動を制御しており、新たに君主になった者は見習うべき」とし、「野蛮な残酷行為や圧政より私達を救済するために神が遣わした人物であるかのように思えた」と記しています。

チェーザレ・ボルジアは、ローマ教皇アレクサンデル6世の庶子で、彼は教皇の権力とフランス王国の支援を背景に、15世紀末から16世紀初めにかけてイタリア半島の統一を目指して多くの戦争と陰謀に関わりました。彼の生涯は、成功と失敗の両面を見せるものでした。

チェーザレ・ボルジアの成功の一つは、教皇になった父親から多くの特権と地位を得たことです。彼は幼い頃から枢機卿に任命され、教会の高位に就きました。また、フランス王シャルル8世の娘と養子縁組をし、フランス王家との繋がりを強めました。さらに、父親の支援でイタリア中部や北部の諸侯を征服し、自らの領土を拡大しました。彼は優れた軍事的才能と政治的手腕を発揮し、イタリア半島における最強の君主として恐れられました。

しかし、チェーザレ・ボルジアの失敗も少なくありませんでした。彼は自分の野心のために多くの人々を殺害したり裏切ったりしましたが、それが彼に多くの敵を作りました。彼は自分の兄弟や妹や妻や友人までも犠牲にしましたが、それが彼に多くの孤独をもたらしました。そして、父親の死が彼の人生を狂わせました。父親が死ぬと、ボルジア家と敵対する人物が教皇となりました。その教皇からの支援はなく、フランス王国とも対立しました。彼は敵対する教皇に逮捕され、その後ナバラに逃亡しましたが、そこで戦闘中に負傷し、死亡しました。享年32歳の若さでした。

チェーザレ・ボルジアは、イタリア史上において最も魅力的でありながら最も恐ろしい人物の一人です。彼は自分の夢を実現するためにあらゆる手段を使いましたが、それが彼に幸福をもたらすことはありませんでした。マキャヴェッリはチェーザレ・ボルジアの時として残忍な行為は、チェーザレの私利私欲のためでなくイタリア統一という夢の実現のためであると考え、君主として見習う部分であると考えています。

次項、君主論(3)私見、君主論についてお読みいただけると幸いです。

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