マキャヴェリの君主論は、26章から構成されています。第1章から第11章までは、君主国の種類や獲得方法について説明しています。第12章から第14章までは、軍事に関する君主の義務や戦略について述べています。第15章から第23章までは、君主が持つべき資質や態度について論じています。第24章から第26章までは、イタリアの現状や君主の運命について触れています。
ここからはあくまで私見ですが、17章を読めば君主論の必要最低限の理解は得られると思います。下記に君主論17章(永江良一:訳)を抜粋して引用します。
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第17章 「冷酷さと慈悲深さについて、 また愛されるほうが 恐れられるよりもよいかどう かについて」(前略)チェザーレ・ボルジアは冷酷だと思われましたが、それにもかかわらず、その冷酷さのおかげでロマーニャは和解し、平和と忠誠を取り戻したのです。(中略)あまりになさけ深くしすぎると騒乱を招き、その結果、殺人や強奪が横行します。こうして全民衆を傷付けることになるのですが、一方、君主が行う処刑はただ個人だけを害するだけで終わります。
(中略)それは、恐れられるより愛されるほうがよいのか、それとも、愛されるより恐れられる ほうがよいのかということです。その両方でありたいというのが答なのでしょうが、しかし 一人の人格がこれを兼ね備えるのは難しいことなので、この二つのうちどちらかだけで済ますとすると、愛されるより恐れられるほうがずっと安全です。なぜなら、人間というもの は一般に、恩知らずで、移り気で、不誠実で、臆病で、強欲なものであって、君主がうまくいっているうちは、全体として意のままになります。(中略)それに人間は、恐れる人より 愛する人を傷つけるほうが、ためらいが少ないのです。というのは、恩義というつながりによった愛は、人間のあさましさのせいで、自分の利益になる機会があればいつでも破られるのですが、恐怖のほうは、必ずやふりかかる処罰を恐れて、君主を守ってくれるのです。それでも君主は、愛を得られないなら、憎しみを避けるようにして、恐怖の念を惹き起こすべきです。なぜなら、君主は、市民や臣民の財産、その婦女子に手を出さしさえしなければ、憎まれてはいないままで、十分恐れられることができるからです。
(中略)財産を取りあげる口実が見つからないということは決してないのです。というのも、強奪で生計を立てはじめた者は、他人の所有する物を奪う口実をいつでも見つけるからです。しかし命を奪う理由というのは、その反対で、 なかなか見つけるのが難しく、たちまち種切れ になります。しかし、君主が自分の軍隊を率い、大勢の兵士を指揮しているときは、冷酷だという悪評を無視することが必要です。というのは、冷酷だという悪評がたたないようでは、軍隊を統合し、義務に従わせることはできないからです。
(中略)私は次のように結論します。 人々は自分の意志で 愛するのであり、君主の意向で恐れるのですから、賢明な君主は、他人の統制下ではなく自分の統制のもとにあるものに基づいて、その立場を固めるべきなのです。ただ注意しておいたように、恨まれることは避けるよう努めなければなりません。
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敢えて君主の心構えを簡潔に言えば次の通りです
- 君主は愛されるより恐れられた方が良い
- 恐れられると憎まれるは似て非なるものである
- 君主は憎まれることをしてはいけない
- 憎まれることとは、市民や臣民の財産を奪うこと、その婦女子に手を出すことである
“目的のためには手段を選ばず”は、君主として恐れられるためには使わざるを得ないこともあるが、憎まれる行為のためには使うべきではないとマキャヴェリは考えているようです。
ひとつ、17章で触れていないことですが“人は愛する方が良いのか?愛される方が良いのか?”という多くの人が考える問題があります。相思相愛が理想でしょうが、その理想は適えられないことが多いのが現実ではないかと思います。“人に愛される”って言うことはかなり儚い(移ろい)ものです。しかし、“人を愛すること”は自分の意志で出来ることです。「儚いことに自分の人生を賭けるも。良し!自分の意志に人生を賭けるも、良し!」“愛”は、かなり悩ましい問題を我々に提起します。
了