ニッコロ・マキャヴェッリの“目的のためには手段を選ばず”と言うフレーズ(俗に「マキャヴェリズ」と呼ばれる)があまりにも有名です。力による現状を変更しようという今の世相にマキャヴェリズは相通じるように思われたので、マキャヴェッリの「君主論」を読みました。
しかし、君主論を理解するにはマキャヴェッリと彼を取り巻く人々を知る必要があると感じ、少し調べました。
当時のイタリアは、日本の戦国時代のように領地を取ったり取られたりの混乱が続き、フィレンツェ共和国、ヴェネツィア共和国、ローマ教皇国、ミラノ公国、ナポリ王国が覇権を競っていました。イタリアという統一国家は未だ存在していない時代のフィレンツェが君主論の舞台になっています。君主論を理解する上で下記の人物を知ることが大事と思います。
- ロレンツォ・デ・メディチ:「偉大なるロレンツォ」と呼ばれ、フィレンツェの黄金時代を築いた。彼はダ・ヴィンチやボッティチェリ、ミケランジェロなどを支援。
- ピエロ・デ・メディチ:ロレンツォの息子。1492年にロレンツォが亡くなると、ピエロが後を継ぐが民衆の信頼を得ることができず、1502年フィレンツェから追放させられる。
- チェーザレ・ボルジア:ローマ教皇アレクサンデル6世の庶子。彼は政治家、軍人、外交官として活躍し、イタリア統一の夢を追い求めた。1502年のピエロ・デ・メディチ追放はチェーザレ・ボルジアがフィレンツェに侵攻してなされた。1507年にナバラ王国で戦死。
- ピエロ・ソデリーニ:1498年フィレンツェの終身執政官に選出される。チェーザレ・ボルジア亡き後、平定に努める。しかし、1512年メディチ家の支援を受けたスペイン軍がフィレンツェに侵攻し、ソデリーニは逃亡を余儀なくされる。
- ロレンツォ・デ・ピエロ・メディチ:ロレンツォ・デ・メディチの孫、1512年メディチ家はフィレンツェに復権。復権後の権力者となる。
- ニッコロ・マキャヴェッリ:1498年29歳の時フィレンツェのノンキャリの役人となる。外交面で実力を発揮。マキャヴェッリはソデリーニの下で働いていたので、1512年のメディチ家フィレンツェ復権政変の時、書記官を解任される。43歳で無職になり再就職をメディチ家に願い出るために執筆したのが「君主論」。
「君主論」のモデルは上記に引用したチェーザレ・ボルジアと考えられます。チェーザレ・ボルシアは、イタリア・ルネサンスの最も有名な人物の一人で、彼は野心的で残忍で魅力的な人物だったようです。
ニッコロ・マキャヴェッリは上梓した「君主論」を、復権後の権力者、ロレンツォ・デ・ピエロ・メディチに手渡そうとしましたが、その目論見は外れ残念ながら再就職の夢は成就しませんでした。しかし、上梓後500年たっても多くの人々に「君主論」が読まれていることは羨ましい限りです。
君主論をもう少しご理解いただければと願い「君主論(2)チェーザレ・ボルジアについて」、「君主論(3)私見、君主論について」をしたためました。別稿もお読みいただけると幸いです。