ドストエフスキーの「罪と罰」は、19世紀のロシアの貧困と社会的不正に苦しむ若き学生ラスコーリニコフの心理的葛藤を描いた小説です。ラスコーリニコフは、自分は特別な人間であり、社会に貢献するためには道徳や法律に縛られる必要がないという考えにとらわれ、悪徳の高利貸しの老婆を殺害します。彼は、高利貸しの老婆は人間としての価値がなく、彼女の財産を奪うことで自分や他の貧しい人々の生活を改善できると思っていました。ラスコーリニコフの言葉「だって、僕はただしらみを殺しただけだ。なんの益もない、汚らわしい、有害なしらみを」
しかし、偶々居合わせた高利貸しの妹もラスコーリニコフは殺害してしまいます。高利貸しとは無関係な人を殺害してしまった(罪)。ここからラスコーリニコフの心理的葛藤(罰)が始まります。
ここから私見を述べます。
「罪と罰」を読破することは至難の業です:2,300ページを超えるこの小説を完読する人は案外少ないのではないかと思いました。理由は登場人物を覚えることが物凄く大変だったからです。主人公、ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフはラスコーリニコフと呼ばれることもあり、ロジオン・ロマーヌイチと呼ばれることもあり、さらにロージャと呼ばれることもありました。ラスコーリニコフの妹、アヴドーチャ・ローマノヴナ・ラスコーリニコフはアヴドーチャと呼ばれることもあり、ドゥーネチカと呼ばれることもあり、さらにドゥーニャと呼ばれることもありました。事程左様に登場人物に多くの読者は混乱すると思います。私自身200ページ付近で誰が誰だか分からなくなり、読書に挫折しそうになりました。
ドストエフスキーはキリスト教を信じていたと思われます:「罪と罰」という小説の横糸はラスコーリニコフと各章で登場する人物とのストーリーですが、縦糸は何かというと私はキリスト教の教えではないかと思いました。ロシアはキリスト教を否定している、むしろ無神教の国ではないかと思い込んでいたので、「罪と罰」の中でドストエフスキーがキリスト教の考えを敷衍していると感じられる部分があったことは想定外の発見でした。私が感じた部分は次の通りです。(1)ラスコーリニコフを犯人と疑う判事ポルフィーリーとラスコーリニコフの会話の中で突然「ラザロの復活も信じますか?」とのフレーズが出てきます。キリスト教徒であれば誰でも知っている逸話ですが、まさかドストエフスキーがその逸話を引用したことは驚きでした。(2)もうひとつ、飲んだくれの父親を持つ娘、ソーニャにドストエフスキーは特別な役割を与えています。ソーニャはどんな状況であっても献身的にラスコーリニコフを支えます。それはキリスト教の「主はあなたと共におられる」という部分をドストエフスキーはソーニャを通して実現させたと思われます。
「罪と罰」をなんとか読破できて良かったです。しかし、本当に疲れました!生成AIを利用すると200ページの「罪と罰」が読めるかも知れないです。そんなことを考えると生成AIは読書の姿も大きく変えるような気がします。これからその流れに抗うのか、その流れに身を任せるのかかなり悩ましいです。