京西清談は、私が東京の世田谷に住んでいるからと、気持ちが癒される、あるいは、”ほっ”とする話題を提供したいからです。
 
我々が直面する”暇”と”退屈”について

我々が直面する”暇”と”退屈”について

先日、本屋で何気なく手にした國分浩一郎(著)「暇と退屈の倫理学」(新潮文庫)は興味深い内容でしたのでみなさまと共有したいです。

特に興味を持ったのは“暇”と‟退屈”という言葉に対してでした。私にとって“暇”と‟退屈”は同じ意味です。しかし、この本は“暇”と‟退屈”は違うものと取り扱っていました。暇は“することがない”という客観的状態で、退屈は“することがないという気分や感情”という主観的状態を意味していました。更に、退屈には起源がありました。人類が遊動生活から定住生活に変わった時に、定住が人類に“暇”を与え、‟退屈”をもたらしたそうです。定住で解決しなければならないことは、突き詰めればゴミの処分とトイレの処理と退屈の回避になります。当に古くて新しい問題が提起されていました。

ドイツの哲学者、マルティン・ハイデッガーは退屈を3つに分類しています。その分類をこの本は引用しています。

  • 退屈の第1形式は、何かによって退屈にさせられること。つまり外からくる退屈で、気晴らしで解決しようとする。例えば、予定した列車が遅れて駅のホームで待つことを余儀なくされることが外からくる退屈です。その気晴らしはスマホのゲームアプリです。
  • 退屈の第2形式は、楽しいことをしている時に退屈と感じられること。内からくる退屈です。食事会に誘われて美味しい食事をし、美味しいワインを飲み、知的な会話を楽しんでいる時に、心の内に生まれてくる退屈です。この場合の気晴らしはやゃ複雑で、食事会自身が気晴らしですが食事会が退屈を醸し出すという一筋縄では解決できません。
  • 退屈の第3形式は、意味もなく何となく退屈に感じること。突発的に現れて最高度の深い退屈です。この場合、気休めは意味をなしません。解決策は“決断することだ”としています。多分、“決断することだ”は退屈の第2形式の気晴らしにもなるような気がします。

後期高齢者の私は毎日が日曜日状態で、暇はたくさんあります。更に、退屈の第2形式を感じる日が少なからずあります。気晴らしが必要と感じています。

同年代のみなさまはどんな気晴らしをしていますか!?

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